愚一記
2011-12-27 (火) [長年日記]
_ 伊勢湾台風記念館・長島一向一揆・鍋田干拓地
伊勢湾台風の歴史を調べている3年ゼミの班の調査に付き合って長島へ。まず旧長島町(現桑名市)が建てた伊勢湾台風記念館を訪問。事前の調べてわかっていたが、2階に当時の写真などが展示がされているものの、記念館としてはあまりに寂しい。ただ関係者だけに配られたようなレアな資料が見られたのは収穫。ここの見学は要予約で、職員の方には「輪中の郷」を見学するよう勧められた。
ここに記念館が建てられたのは、堤防の仮締切工事が完成した場所だからで、記念碑が建っている。1階が防災倉庫があり、周囲には土嚢用の盛土やブロックが置かれているものの、量は少なく、実際に役立つとは思えなかった。
続いて、記念館にあった当時の写真の場所の現状を探ろうとするも、景観が変わり過ぎており、なかなか難しい。なんとか対照できそうな長島六坊の一つ、深行寺で写真を撮ろうとしたところ、EOS 40Dのシャッターが切れなくなってあせる。電池を出し入れしたりしているうちに幸い回復。これだから共用のカメラは恐い。
次いで、長島一向一揆の拠点、願証寺へ。とは言っても当時の願証寺は今は長良川の底になっており、今の願証寺は祐泉寺という寺を改称したものと言う。ここに「長島一向一揆殉教の碑」が建っており、念入りにお参りしておいた。
次に、伊勢湾台風で大きな被害を受けた弥富市の鍋田干拓地へ。ここには台風後、避難用の3階を持つ独特の形をした災害復興住宅が建てられた。どれだけ残っているかと危ぶんだが、50年以上たった今も結構残っていた。ただ、中には廃屋と化した建物もあり、今のうちに整備して、伊勢湾台風の史跡の一つとして、一般でも見学できるようにすべきではないだろうか。
2011-12-24 (土) [長年日記]
_ [見学] 稲沢に中世を探る
まだ月曜に授業があるが、一年をリセットするため、かつて尾張国の国府が置かれた稲沢市を訪れる。JR稲沢駅で降り、少し北へ歩いて萬徳寺へ。顕密仏教全開の寺で、修験道関係をはじめとする石碑が林立。境内には室町期の簡素で美しい多宝塔が建つ。横の鎮守堂も室町期のものだそうだ
次に国府宮へ。「はだか祭」の舞台となる長大な参道がある。平成24年は2月4日に催される。できれば訪れてみたい。
大江川遊歩道を歩いて性海寺へ向かう。大江川は、尾張国司として赴任し河川改修に尽力した大江匡衡の名前にちなむと言う。匡衡の奥方が有名な歌人の赤染衛門。性海寺にも萬徳寺のものと良く似た室町期の多宝塔が建つ。おもしろいのは、多宝塔に拝殿が付属しており、中に祀られている愛染明王に祈願できること。耳の病に霊験あらたかで、底が抜けた柄杓を奉納するそうだ。
尾張国分寺のエリアに向かう。矢合観音はここが寺?といぶかるほど一般の民家みたいなところだが、諸病に霊験あらたかで多くの参詣者を集め、門前町までできている。お堂に入らせていただくと、中で香が紫雲のようにたなびき、実に癒される空間だった。門前町で矢合観音饅頭を買う。さっぱりしておいしい。次いで鈴置山国分禅寺、鈴置神社を訪れる。「鈴置」は国印や駅鈴を納めた国衙の倉庫に由来する名だろう。
鈴置神社の前の車道を渡って少し右へ折れ、無舗装の道を下ると「鈴置神社御神田」の石柱が立つ。その道を林の方へ進むと、大きな礎石が点在する尾張国分寺旧址に出る。ここは922年頃、かの空也上人が出家したところと言う。
尾張地域には珍しい古代・中世の史跡がこんなにありながら、稲沢市の行政はほとんど関心を示していないようで、説明板は50年前かよという年代物、道案内は皆無に等しい。もったいない。
2010-10-07 (木) [長年日記]
_ [自治体史][見学] 鈴鹿峠踏査
朝1限の講義を終えて亀山に向かい、亀山市歴史博物館で市史の公開方針について会議。その後、市史の方と一緒に、執筆中の原稿に関するフィールドワークで鈴鹿峠へ。旧関宿の新所の端から、ごつごつした岩山が見える峠道に入る。旧坂下宿まではかなりの距離がある。旧坂下宿は今は静かな山麓の集落だが、本来はもっと山の上の方にあり、慶安5年(1650)の大洪水により現在地に移ってきたもの。
軽自動車で片山神社の参道(旧東海道)を登る。近世初期までの坂下宿は神社のすぐ下にあったはずだが、時間の関係で踏査できず。
次いで中世の紀行文に「烏帽子岩」と出てくる鏡岩へ。探すのに迷ったが、鈴鹿峠の滋賀県側から三重県側へ向かう道の途中から「万人講常夜灯」へ抜け、少し三重県側へ歩く。岩は裏(滋賀県側)から見ると、本当に折れた烏帽子のようで、三重県側はなめらかな岩が切り立っている。昔は峠に巣くう山賊が岩に映る旅人の姿を見て襲いに行ったとか。山賊は岩に写った像をどの方向から見たんでしょうねえ、とマジレスされても(^-^)。
普通の革靴で、滑落の恐怖に脅えながら写真を撮る。木を切り払ったら、遠くからも良く目立つ岩になるはず。現状でも三重県から滋賀県へ抜けるトンネルの手前の右方に見えた(よそ見運転注意)。峠の上は平坦で、田村神社の跡がある。近世の名所図会には立派な神社(鈴鹿権現)が描かれている。中世には鈴鹿姫を祀った社があったのだが、史料の記述からすると、峠を三重県側に下ったところにあったはず(現片山神社?)。
次に史料に出てくる「三つ子山」を探す。下の写真の山だと思うが、「三つ子塚」と記した史料もあり、これを「塚」と表すか疑問も残る。
もう陽は落ちかけており、急いで山中郷、蟹が坂(中世では「かどや坂」)を通って土山へ。滋賀県側はなだらかな田園風景が広がり、峠から道が急降下するとは信じられない。土山にも田村神社があり、鈴鹿姫を合祀する。鈴鹿姫は中世には山賊「立烏帽子」と同一視されて恐れられたのに、近世には坂上田村麻呂の奥さんにされたとか。今は三重県側の人も土山の田村神社の祭礼を楽しみにしているそうだが*1、田村神社は本来、三重県側のものという思いもあるそうだ。
最後に旧土山宿を通って帰る。
*1 帰る際に後ろを振り返ると、厄が付くと恐れられてもいる。名物は厄除けの「蟹が坂飴」
2010-02-13 (土) [長年日記]
_ [見学] 中山道踏査(大井宿〜大湫宿)
前回の大井宿下見の続きと、この1ヶ月の運動不足解消を兼ねて中山道を大井宿から大湫宿まで歩く。息子を野球のクラブチームのグラウンドまで送った足で、地下鉄&JR中央線で恵那へ。
恵那駅を降りて、駅前の道の2本目を右折すると、そこが中山道。いきなり幼い姉弟から大きな声で「おはようございます」と挨拶される。この弟は大物になるな。市街地を抜けて、しばらく自動車道路を歩くと中山道への分岐点に至る。右へ行くと恵那市の力の入った案内板がある。中央高速道を下から抜けてしばらく行くと「十三峠」の入口に。そう、今日歩くのは13の峠が連続する中山道で屈指の難所なのだ。
石畳の坂が長く続き、これは思ったより大変そうだぞとビビリながら、西行終焉の地の伝説がある西行塚を過ぎてしばらく歩くと、槙ケ根の一里塚に至る。道の両方に大きな塚がある。これまで一里塚は道の片側にしかないと思っていた。この辺は「西行の森」という公園になっていて、桜の季節にはきれいだろう。
しばらく平坦な尾根道を行くと槙が根立場。街道の途中の休憩所で茶屋が建ち並んで賑わった。ここから名古屋へ直行する下街道が分岐する。姫御殿跡、首なし地蔵を過ぎて急な下りの乱れ坂に。少し行くと四つ谷休憩所。ここまでが2時間。集落内に通る道もカラー舗装がしてあるのは良い。集落をいくつか過ぎて紅坂の一里塚。昨年夏に訪れた信玄の棒道を連想する。
基本的には山道なのだが車が通れるほど幅があり、きちんと側溝が作られている。いくつもの坂を登っては降りるが、きついなと思い始めると峠が目に入り、うまく作られている。江戸幕府は良いウォーキングロードを残してくれたものだ。15分も歩くと立場跡があり、往事はそこで茶と餅・おこわが楽しめたと思うと、そのインフラが失われたことを残念に思う。期間限定のイベントとかで復活してもらえないだろうか。馬頭観音が各所に祀られていて、馬が主要な交通手段だった時代を偲ばせる。
歩き出してから5時間弱、下り坂の向こうに大湫宿が見えてくる。山間の静かな集落。脇本陣の建物が今も残り、真新しい山車庫が建つ。宿のはずれの観音堂は見応えがある。ここから釜戸駅へ行く道がすごい下り坂で1時間弱かかる。江戸時代の中山道がどれだけ高いところを通っていたのかを実感。
2010-02-09 (火) [長年日記]
_ 一段落
少し暖かい。年末年始の卒論狂想曲も大変だったが、その後も試験問題作成・監督・採点・成績付け、センター試験主任監督(リスニング付き)、卒論発表会に新年会のはしご、勤務校の入試監督・採点、校費予算の締め、委員会業務もろもろを、500頁ほどの単著の最終稿づくりと並行してやっていたから、目のまわるような忙しさだった。なんとか単著の原稿も出版社に送り、入試もまだ2回あるが山は越え、ほっと一息ついたところ。
これからは亀山市史の通史編執筆と史料編校正、三重県史の史料翻刻・整理に集中しなければならない。なんてこと言ってると、すぐ新年度。すべて順調に行けば、夏には少し暇になるはずだが...
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